ゆのすのす

青い鳥、逃避行。

#文学フリマで買った本 ドna『キリストのからだはうすくてまるい 祖母の大胆な抹香づかみ』(2)

意外に思われるかもしれないのですが、私はいたずらに形式ばったことをするのが好きです。

たとえば、私は敬語がとても好きです。今のところ、目上にメールを書くのを苦に感じたことがあんまりありません(そのかわり、森ではだれにでも敬語を遣ったせいでほとんどだれとも距離を縮められませんでしたが……)。むしろLINEのほうが苦手です。このブログでも丁寧語を遣っていますが、好んでこうしているところがあります。
就職活動でも、スーツを着ることじたいは嫌ではありませんでした。P.S.FAの人にいわれたとおりに買った服を着ていればいいのはある意味において楽です。

ただ、形式がジェンダー化されることには違和感を覚えます。ジャケットが要る場面があるのは理解できますが、パンプスで足を痛める人がパンプスを強いられるのはおかしいと思います。かりに形式が誠意を示すとして、形式がジェンダー化されなければならない理由があるでしょうか。

あるとしたら、ジェンダーじたいがいたずらな形式だからでしょうか。

naさん「祖母の大胆な抹香づかみ」における一連の短歌、そして続くエッセイ「偶然性とモリモリ焼香スタイル」を、葬礼の形式性を主題のひとつとするものとして拝読しました*1
そして、追悼儀礼には死の受け皿をパフォーマティヴに生むという意味があるかもしれないと考えました。いいかえると、死を受容したから追悼儀礼に参加するというより、種々の追悼儀礼に繰りかえし参加することによって死を受容できるようになるものと考えられるかもしれないと思いました。

ここでいうパフォーマティヴィティはアメリカの哲学者ジュディス・バトラーによる概念です*2
ジェンダーにふさわしい振る舞いを反復的に演じることによってアイデンティティとして受けいれていくことができることがあるように、追悼にふさわしい振る舞いを反復的に演じることによって死を受けいれる心身となっていくことができると考えられるのではないかと思いました。
死はしばしば予期できない「偶然性」ですが、ジェンダーも多くの場合は予期できない「偶然性」として割りあてられるものではないでしょうか。

その日その場にふさわしい形式はあるかもしれませんが、形式が古今東西変わらないことはまずないと思います。言葉も、服装も、儀礼も、ジェンダーも。
遅くとも私がこの世を去るまでに、だれかを痛めるいたずらな形式がすこしでも多くの人にとって痛ましくないものになっていくといいなと、naさんの短歌とエッセイに接して思いました。
言葉や服装をすこしずつ快適にできるように、儀礼ジェンダーももっと快適にできる。そう、大胆に。

(この投稿では、文学フリマ参加規約第6条2.に従い、「文学フリマ東京39」出店者の方により販売された作品を紹介しています。当該出店者の方におかれては、本投稿に関してお気づきの点などございましたら投稿者までご遠慮なくお知らせください。)

*1:短歌・エッセイともにドna『キリストのからだはうすくてまるい 祖母の大胆な抹香づかみ』所収。

*2:パフォーマティヴィティに関しては次回の投稿をご参照ください。なぜバトラーのパフォーマティヴィティ理論を持ちだすのかに関してもうすこし丁寧な説明が必要だと感じていますが、投稿の趣旨をあまりにも逸脱しますから、次回の投稿に記します。